1924年3月2日に広島県佐伯郡砂谷村(現・湯来町)で生まれた森田さんは1944年11月,召集を受け徴兵された。1945年8月6日朝、配属先の広島で、横川の電車橋をわたり,西に向かっていた時、爆心地から1.3キロで原爆を受け、後背部に火傷を負った。その状態で8月9日まで任務についたが,動けなくなり,大野の臨時陸軍病院に入院した。1947年,白血球減少症などの原爆症に罹ったことを自覚。その後ブラジルに移住した人に勧められて,妻と2人の子どもを連れて1956年にブラジルへわたった。
苦労して子どもを育て、1983年より在ブラジルの被爆者とともに運動に携わる。1984年7月15日、海外居住者に日本国内居住者と同様の法適用を求めて、「在ブラジル原爆被爆者協会」を結成し、会長を務める。妻の綾子さんが事務局長。
1984年9月に,日本政府,広島県,広島市,長崎県,長崎市などに申し入れを行うために,ブラジル移住後初めて帰国。その際に被爆者健康手帳を取得した。その後、厚生省,外務省,安倍晋太郎外務大臣等へ働きかけ、1985年よりブラジルへの検診団派遣が実現。現在は2年に1回ずつ,北米の検診と交互に医師団が派遣されている。
森田さんは、その後も、在ブラジル被爆者への日本在住被爆者と同等の援助を求めて日本に帰国、要請を繰り返している。郭貴勲裁判では大阪地裁で証人として証言。厚生労働省の「在外被爆者に関する検討会」では参考人として陳述。在ブラジル被爆者の惨状を訴えるとともに、在外被爆者に対する行政の矛盾と問題点を指摘した。
しかし、2001年12月に厚生労働省が発表した在外被爆者への援護施策を聞き、在ブラジル被爆者を救う道は裁判以外にないと判断し、提訴を決意した。