李康寧さんのプロフィール
1927年に植民地下の朝鮮から仕事を求めて福岡県戸畑市に移り住んだ父母のもとに生まれる。1943年12月、長崎の三菱兵器製作所大橋工場に徴用され、寮で被爆。現在は釜山に住み、長崎徴用工生存者同志会会長、協会釜山支部副支部長。

ちょっと詳しい李さんのプロフィール

〜被爆五四周年目の長崎で訴える〜
   
「被爆体験を語り継ぐ会」で、李さん語る (’99.8.8)
  
 私は、福岡県戸畑市で生まれ育ちました。尋常小学校、高等小学校を経て九州高等経理学校を卒業しました。卒業後は、叔父の経営する事業所に勤務していました。
 一九四三(昭一八)年戸畑市長からの徴用令状により、長崎にやってきました。配置されたのは、三菱兵器製作所大橋工場でした。
 宿舎は、長崎駅前の山の中腹にある本蓮寺で、西山寮と呼ばれていました。一七歳(かぞえ)の私にとっては、何もかも初めてづくしでした。初めて親元を離れ、初めての長崎で、初めての寮生活でした。一人として知っている人もいません。不安ばかりが脳裏をかけめぐりました。
 翌日から五時半起床。点呼、清掃、朝食とすべて団体で行動します。工場までは、舎監先生の引率で、個人的行動は許されません。
 工場では、先ず軍需工場の規則や諸注意があり、初めの一週間は、実習訓練です。ハンマの打ち方ややすりの使い方が主にありました。訓練のあと私は、熱処理部に配置されました。熱処理で特に興味をひかれたのは、暗室で、やけ具合による色で温度を知る目測方法、グラインダに鉄をあてて飛び散る火花の模様で鉄の種類を見分ける方法などでした。仕事の興味もあり、日を重ねるごとに職場生活は楽しくなりました。私は帝国日本の聖戦完遂のため、日本人になり切って、日本の勝利を信じて一生懸命働きました。その甲斐あってか模範行員として表彰され、賞金まで受けました。
 寮では、年少者で小柄な私は、舎監や寮母先生、炊事の姉さん、年輩の寮生のみなさんから可愛がられていました。そのうち第四分隊長に任命され、人員の把握や管理、食事の準備等、運営のことまでするようになりました。

 一九四五(昭20)年になると仕事に追いつかず、徹夜の作業も多くなりました。八月八日、徹夜の勤務で、寮に帰ったのは、九日の朝でした。朝食をすまし、すぐ床につきました。どれくらい眠ったのか、目を醒まし、腹がすいていたので同日の南君に「うどんを食べに行こう。」と誘った時です。急に閃光が走り、何秒かの差で轟音とものすごい強風に襲われました。障子やガラス窓が吹き飛ばされ、天井から土や瓦が落ち、まわりは暗くなり、失神状態になってしまいました。どれだけ時間がたったのか、気がついた時は半裸体でしたが、南君ともども無事でした。縁側に出てみると三人の寮生が仰向けのまま、動きもせずまぶたが紫色になり、拳ぐらいに腫れ上がっています。本殿に寝ていた数人は、倒れた壁で頭や顔は血だらけになり、助けを求めています。
 私たちは半裸体、はだしのまま、重傷者を担架で救護所(当時は勝山国民学校)へ運びました。救護所は言葉で表せないような悲惨そのものでした。真っ黒に焼けただれた人、身体全体血まみれの人、裸同然の人、声も出せずうずくまったままの人、まるで地獄の修羅場の様相でした。
 帰ると、本蓮寺の寮は、あちこちから火の手が上がっていました。私たちは、寮母先生などと一緒に乾パンや米俵を運び出し、寺から離れた墓の納骨堂に入れました。行き場を失った私たちは、山の中腹の墓場で一夜を過ごしました。そこから見える長崎の街は、火焔に包まれ、夜の空を真っ赤に染めていました。
 十日の朝、寮の様子を見に行きましたが熱くて近寄れず、墓場へ引き返しました。
 十一日の朝、寮母先生、南君と私の三人は寮の被害報告のため大橋工場に向かいました。途中、道路や川は、おびただしい死体と異臭で地獄の中を歩いているようでした。工場は無惨な姿に変わり果て、救助活動が行われていました。私たちと南君は、早速、救助活動に加わりました。一五日終戦。このことを寮母先生から聞いた時は、全身の力が抜け、みんな声を出して泣きました。
 いったん、戸畑に戻り、帰国したのは一二月でした。 

 帰国後、韓国の戦争にも四年半従事しましたが、運動機能障害に悩まされ続けました。
 一九八一(昭五十六)年、来日し、寮母先生などの証明で原爆手帳(被爆者健康手帳)を取得しました。
 一九九四(平六)年、市民の会のお力添えで、長崎の病院で三ケ月間入院治療を受けることができました。その時、三年間の健康手当(健康管理手当)支給も認定されました。ところが帰国したとたん、手当支給は打ち切られていました。長崎市役所に問い合わせると、日本の地を離れると原爆手帳は、失権し、当然手当て支給は消滅するというのです。
 私は、承伏できず市民の会の力を借りながら、長崎県知事へ、審査請求をしました。口頭陳述の機会までつくってもらったのですが、結果は却下でした。それで厚生省へ再審査請求を行いました。審査期間は一年六ヶ月を費やしながら採決は、却下というものでした。そこで地裁提訴に踏み切った次第です。
 
 日本政府は、わが国を三六年間も植民地として従属させた上に、さきの戦争では、強制連行や徴用令で人権無視の労働で酷使しました。私も木村康寧(やすし)という日本人として兵器製作所で労働に従事させられました。そんな中で私は、日本の勝利を目指して、一心不乱に働きました。日本政府からは感謝こそされ、差別されるようなことは何一つありません。
 また、被爆者援護法には民族や国籍に対する条項はありません。被爆者は現在どこに住んでいようが、日本で受けた被爆者であり居住地によって被爆者でなくなるということはどう考えても納得できません。在外居住の被爆者にも、日本居住の被爆者と同様の援護を勝ち取るために最後まで頑張るつもりです。みなさま方のご支援を心よりお願い申し上げ私の話を終わります。

 


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