二十三億ドルの補償要求
渡日治療打ち切りからちょうど一年後の一九八七年十一月三十日、協会は日本政府の韓国人の強制連行と被爆、戦後の放置責任を問い、総額二十三億ドルの補債を求める要望書をソウルの日本大使館に提出した。この二十三億ドルの補償要求は、在韓被爆者が植民地下で日本国籍に変えられ被害を受けた経過から、最低限、日本人被爆者と同じ措置を受けるべきだとし、八四年度の厚生省の被爆者対策予算を基準に補償額を算出したものである。協会は補償が実現すれば、遺族への弔慰金、韓国内での原爆病院の建設など、被爆者の治療と生活補償に充てたいとした。
協会が「補償要求」という形を日本政府につきつけたのは、戦後初のことだった。
一九八八年三月、当時の協会の辛泳洙(シン・ヨンス)会長が来日、この二十三億ドルについて次のように語っている。
「渡日治療は日本の自民党と韓国との協約、両国の与党間で話し合いをつけたものです。あの時分は、双方の与党が韓国の被爆者の頭越しに決めたのです。だから、たとえばお腹が痛いのに、背中をさすってくれるようなものなのです。私たちが本当に欲しいのは、渡日治療とか、日本に行って被爆者手帳を交付してもらうとかいうようなことではありません。ただ、渡日治療を希望しないと言っても、ないよりはある方がいいから、五年間に三百人余りが来ることになったのです。 そして、皆感謝しているとはいっても、根本問題は今度協会が出した二十三億ドルの補償要求なのです。その根底には、金額の多少はあるのだけれども、国家補償であることが問題なのです。
私は韓国政府にも、よくこういうのです。『日本に対して、絶対に、韓国の被爆者にこれこれをしてくださいと言わないでくれ』と。それは、姿勢の問題です。本当は、日本政府が頭を下げて、まことにすまないことをした、こういう過ちは二度としないから…と、その気持ちが欲しいのですよ。それがあれば二十三億ドルなんて、なくてもいい。ところが、その謝罪をどうしてもしようとはしないのですね」。
辛会長は、具体的な要求項目として、原爆病院の建設、被爆者センダーの建設、賠償の意味をこめた弔慰金と慰労金、被爆者の実態調査、定期検診などをあげている。
「この諸要求の中で、被爆者たちが一番希望しているのは弔慰金と慰労金なのです。要求が新聞に載ると、その日から協会に電話がじやんじやんかかってきて、『二十三億ドルをもらったらしいが、一人当たりいくらになるのか』というのですね。だから、治療も必要だし、原爆病院も必要なのだけれども、やはりお金が必要なのです。
その次は、被爆者センターの設置です。被害者協会が中心になって、日本政府から補償金をもらったとしても、被爆者の間で分配するという作業は簡単ではありません。また、それに対する不平不満、批判は生まれてくるはずです。ですから、一日も早くセンターを造って、被爆者たちが一日も早く自立して、権利を主張し、人権を回復ずることこそ、最も大事なのではないかと考えております」。
(在韓被爆者が語る被爆50年−求められる戦後補償−〈改訂版〉より)