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祖国へ帰った人々
一九四五年八月十五日、日本の敗戦は朝鮮人の人々にとっての祖国解枚の日だった。生き残った朝鮮人たちの大半は我先に、下関、仙椅などの港へ詰めかけ、続々と帰国して行った。当時、「朝鮮人を殺せ!」という流言飛語があったという証言もある。朝鮮人が多かった島根県の匹見にいた崔英順さん(チェ・ヨンスン、広島の益田高女の学徒動員で広島市大州の中国配電の機械工場で被爆)の手記によると、
「日本が戦争に負けて、村には『朝鮮人を殴り殺せ』という噂が広がっていました。母は『早く故郷へ帰ろう』と言いました。村の人違は『帰らずにこの村におりなさい』と言ってくれましたが、恐ろしくて、父がトラックを一台借りることができた日の朝早く、逃げるようにして匹見の村を出ていきました。下関へいくのですが、途中、朝鮮人であることがばれて殺されてはいけないので、荷物の中にうずくまり、その上にシーツをかけられました。下関に着くと、朝鮮人が多くて、いつ船に乗れるか見当がつきませんでした。三か月待ちましたが、二歳の妹がジフテリアで亡くなりました。十二月になり、仙崎港(山口県)から小さな船で沖合まで行き、連絡船に乗り移りました。この船には荷物は乗せられませんので、闇の船に乗せて父が後から帰ることになりました。
釜山にやっと着くと、一人当たり一万円まで元(ウォン)に替えてくれました。そのお金で父を待つ間、食べ物を買い、次の年の春に父が荷物を持って帰った時にはお金はなくなっていました。
後になってわかったことですが、日本から引き楊げた人に聞くと、たいてい『朝鮮人は叩き殺す』と言われたと聞きました。日本政府は朝鮮人を追い払うために、こういう導を流したのではないかと思います。」(『ヒロシマへ…韓国の被爆者の手記』から)
朝鮮人被爆者の多くは原爆により、日本で築いた生活の一切を破壊され、祖国の地にたどりついた。しかし、そこに帰る家や耕す田畑、頼りとする肉親が残っているものは少なかった。祖国での生活を一から始めなければならなかった人も少なくない。そのうえ、原爆後障害がすこしづつ被爆者の体を蝕んでいた。が、当時、病気の原因が被爆にあることを知っていた者はほとんどなく、わけのわからないまま「ハンセン氏病」と思われたり、伝染病と思われたりした。そしてまわりから理解されないために、人知れない苦労をしなければならなかった。重ねて「日本帰リ」と同胞から差別され続ける毎日。日本で生れた者や幼いころ日本へ来た者は、徹底した日本語教育のために、母国語をしゃべることができなかっのだ。
釜山に住む李一守(イ・イルス)さんもそのひとりだ。一九三〇年三月四日広島県大竹市生まれ。一四歳で広島市大洲橋付近で被爆、四五年十一月二十日に帰国した。今でも日本語が流暢だ。「日本語のアクセントが身についていて、韓国語の正確な発音ができないんですよ。帰国して小学校の五年生からやり直そうと入学したんですが、言葉はわからないし、年齢も高いでしょ、一日中冷やかされ続けて、二週間でやめましたよ。今でもね、喫茶店で話をしていたら、ほかの席から『あの人、日本帰りよ』っていうのが聞こえてきて…もう、悔しくってねえ…。一生のうちで一番いい時があんなんだったでしょ…。」
病苦と貧困に苦しむ在韓被爆者。そこにさらに追い討ちをかけたのが一九五〇年に勃発した朝鮮戦争だった。せっかく祖国の土を踏んだにもかかわらず、家族が離れ離れになってしまったり、「少しばかりあった小金もなくなり、ほぼ数年立ち直れなかった」という人もいる。その同じころ、日本では特需景気に沸き、朝鮮戦争が戦後の復興の足がかりを作ることになる。
一方、一九五四年三月一日には、アメリカのビキニ環礁での水爆実験により、第五福竜丸が被爆、機関長だった久保山愛吉さんが放射線障害で亡くなるという事件が起こった。これをきっかけに日本では原水禁運動、被爆者補償運動がにわかに盛り上がりを見せる。そして五七年には被爆者のための「医療法」が、六八年には「特別措置法」が制定され、不十分ではあるが、日本政府により、国内の被爆者補償が行われるようになった。
(在韓被爆者が語る被爆50年−求められる戦後補償−〈改訂版〉より)